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新潟家庭裁判所 昭和39年(家)2933号 審判

申立人 山本明(仮名)

右法定代理人親権者父 富田栄男(仮名)

主文

本件申立は、これを却下する。

理由

一、本件申立の趣旨及びその実情

申立人は、申立人の氏「山本」を父の氏「富田」に変更することを許可する旨の審判を求め、その申立の実情として、申立人は昭和三四年一〇月二三日山本シズの子として生まれ、同三九年八月二一日父富田栄男より認知され、同日父母の協議により申立人の親権者を父と定められた。申立人は出生以来父のもとにおいて監護養育を受け、かつすでに通称として父「富田」の氏を使用しており、学齢期に達すると何かと不便であるから父の氏を称したいと述べた。

二、本件申立の背景となる事実関係

調査審問の結果によると、次のような事実が認められる。

すなわち、

(一)  申立人の父富田栄男は、富田一男の四男であり、一男は新潟市亀貝○○番地で農業を営んでいたものであるが、長男利男は今次の戦争で生死不明となり、同人妻も昭和一七年病死したため、終戦後間もなく傷病軍人として復員した栄男は、利男の三人の子の後見役として、一男の後をついで農業に従事し、その代り一〇年後には一男から農地の一部と住宅の贈与を受けて独立することとなり、同二一年四月一日日野ミチと婚姻、その後同女との間に長男久男、二男典男、長女利子、三男昭男をもうけた。

(二)  一方山本シズは、同二八年頃(当時一五歳)一男方の女中として雇われたものであるが、同三三年六月頃からミチは栄男とシズとの関係を問題とするようになつた。同年一〇月シズは病気のため同市内にある栄男の姉の家にあづけられたところ、栄男は、同年一一月一三日上京すると称して家を出たまま上京せず、そのままシズと共に駈落し、以後新潟県西蒲原郡○○町において同棲生活を始めるに至つた。

(三)  栄男は、家出に際し農協預金を全部払戻して持出した外、約八〇万円の借財を残して行つたため、一男は、農地を売却してその返済に当てなければならなかつた。

(四)  シズは、栄男と同棲すると女工として働き、その収入と栄男の恩給で生活していたが、同三四年一〇月二三日両名の間に申立人が生まれ、同三九年八月二一日栄男が認知すると共に、同日父母の協議により申立人の親権者を父と定めた。栄男は同年三月から学校の守衛として勤務するようになつたが、父一男や妻ミチとは全く音信不通でその所在も知らせておらず、勿論ミチやその子に対し、生活費、養育費の支給もしていない。そして妻と離婚する意思はなく、将来もこのままの状態を続けたいと希望している。

(五)  ミチは、土建会社の人夫として働き、長男久男と共に二男典男、長女利子、三男昭男を扶養しているが、前記の事情から栄男を憎悪し、申立人の改氏に強く反対して本件調査にも応じようとせず、また一男も栄男の所在が判明したら殺してやりたいと口ばしる等、ミチ、一男の栄男に対する感情は悪化している。

三、本件申立に対する当裁判所の判断

そこで以上認定の事実関係のもとで、本件申立を相当なものとして許可すべきかどうかについて検討するに、まず民法第七九一条一項に規定する子の氏の変更につき、「氏の如何は親権、扶養、相続等身分上の権利関係になんら影響を及ぼすおそれはなく、氏は個人の呼称にすぎぬから、呼称秩序をみだすことのない限り、第三者は異議をさしはさむことはできず、家庭裁判所は法律上の父子あるいは母子関係を審査するだけで当然許可しなければならない。」とする説がある。この説によれば、本件においても妻の反対を顧慮することなく申立人の氏の変更を許すべきことは当然といわなければならない。

はたして右の説を正当として是認すべきであろうか。氏の制度の本質については困難な問題があるが、少なくともそれが明治初年から国民に親しまれた戸籍と結び付いて家庭集団ないし保育的共同関係の標識として国民に意識されていることは否定できず、民法の規定する親子同氏、夫婦同氏の原則もこの氏意識に基くものであり、民法第七九一条の子の氏の変更も、自己の子をして自己の氏を称せしめ、かつ自己と同一戸籍に入籍せしめたいという前記の氏意識に立脚した国民感情を尊重したものであることは周知のとおりである。たしかに非嫡出子が父の氏を称しても、父の妻との間には、旧民法のごとき嫡母庶子関係を生ぜず、法律的に新たな身分関係を生ずることはないが、改氏に伴い祭祀の承継の問題が起こりうるほか、かかる非嫡出子が父によつて祖先の祭祀の主宰者に指定され(民法第八九七条一項)、しかも多くの財産を遺贈されるときは、実質的には旧法の庶男子が嫡女子に優先して家督相続をするのと同一結果を招くことにもなりかねないし、さらに非嫡出子が父と同一の戸籍に入る結果、関係人の感情、意識に大きな影響を及ぼす場合のありうることは否定しえないところである。

もしこの場合、父の妻の反対を単なる感情の問題にすぎないとして排斥しうるとすれば、子が父の氏に変更したいと申立てることも、また法律関係には影響のない感情の問題ともいいうるであろう。非嫡出子の改氏の意思を尊重しなければならぬというならば、同時に婚姻の倫理性、家庭の平和と健全性のため、妻の意思をもまた無視すべきでないというべきである。のみならず、一旦婚姻して同氏同籍となつた後において、氏を改め又は転籍もしくは分籍しようとする場合には、その筆頭者のみの届出では許されず、配偶者と共同して届出なければならないのであるから(戸籍法第一〇七条一項、第一〇八条一項、第一三三条)、婚姻後は戸籍の筆頭者だけの氏ではなく、まさに夫婦の氏ともいうべきであるから、かかる意味においても妻の意思を無視してよいという議論は疑問なしとしないのである。

したがつて、家庭裁判所は民法第七九一条の子の氏変更の審判に際し、法律上の親子関係があるかどうか、同条二項の要件を具備しているかどうかの形式的要件の審査及び氏の変更が呼称秩序をみだすかどうかの判断だけでなく、改氏に異議をとなえる者があると思料される場合には、すすんで非嫡出子の保護と婚姻の尊重という両面から、関係人の利害感情を比較衡量し、改氏に反対する者の側の事情よりも、非嫡出子の保護を優先させるべき事情が存在するかどうかについても審理しなければならないと解すべきである。

これを本件についてみるに、申立人は未だ幼年であるから、本件申立は父栄男又は母山本シズの意思によるものと推認されるところ、栄男は同三三年一一月から妻、子を遺棄してかえりみず、なんら夫婦関係の調整につき努力しないばかりか、将来もこのまま放置しておきたいとの意思を示しているに反し、妻の側の栄男に対する感情は極めて悪化しているから、夫婦間の調整なしに今申立人の氏を父の氏に変更し、申立人を父の戸籍に入籍させるとするならば、火に油をそそぐ結果となることは明らかである。かかる事態を招来したことについて、もとより申立人自身にはなんら責任はないわけであるが、先に認定した申立人及び栄男、シズの側と、妻の側の各事情を比較検討するならば、少なくとも本件においては、改氏に反対する妻の意思を尊重すべきであり、それが婚姻の倫理、家庭の平和と健全性を守るゆえんというべきである。

よつて本件申立は相当でないからこれを却下することとし、主文のとおり審判する。

(家事審判官 時岡泰)

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